「イルカを感じる…」  モントレー沖、カマイルカ    

      リチャード・オバリー氏、招聘を終えて…。 ( 2003.12.30記.) 
 

「イルカを感じる…」。これが来日中、オバリー氏が語った数々の言葉の中で、私が一番印象に残った言葉だった。
思い起こせば91年、初めて野生のイルカと泳いだ頃lはいつもイルカをイメージしながら瞑想していたし、94年、私がある雑誌に載せた文章では、「イルカから学びとることを人間の言葉に置き換えるのはナンセンスだ。静かに目を閉じること…、それだけで充分だ」とまで書いている。
しかし、実はこのところ、そんな「イルカを感じる…」ことは、すっかり忘れていたのである。
というのは、この10年あまり、野生のイルカのすばらしさを一人でも多くの人に知ってもらいたいと活動してきた中で、〈イルカ=神秘・超能力・癒し…〉そんなイメージがあまりに広まってしまった苦い経験と、取材者としての立場から、私はあえて「感性」という視点でイルカを語ることを避けてきたようなのだ。
特に99年、富戸におけるイルカ漁の取材以降は、イルカは正に「血を流す動物」として、あまりに現実的な存在となってしまい、「イルカと泳ぐと楽しいよ」といった話題さえ口にするのがはばかられるような、そんな状態が続いてきた気がする。その事実をふっと思い出させてくれたのが、オバリー氏のこの言葉だったのだ。

9月2日、富戸でのイルカ&ネイチャーウォッチングの後、かつてはイルカの血で染まっていた港の一角で氏はこう言った。「会えはしなかったが、イルカたちは確かにそこにいた。イルカを感じることもウォッチングの大切な要素だ…」

イルカ漁の地、富戸でイルカウォッチングが始まって1年、最近ようやく平常心に近い精神状態で富戸の港に足を踏み入れることができるようになってきた私にとって、その言葉は「イルカとのふれあい」の原点に引き戻してくれる、どこかなつかしい響きをもっていた。まして、現実のイルカたちと長年にわたって“格闘”してきたオバリー氏の口から出た「感じる」という言葉は、ちょっと意外でもあり、それだけ新鮮に聞こえたのである。
更に言えば、それはイルカとの異種間コミュニケーションを40年近く続けてきた、氏の達観した感想だったかも知れないとも思う。人間関係のいざこざ、金の問題等など、およそ浮ついたイメージでイルカを語れるような余裕など無い「現場」で、氏は常にイルカがおかれている「今」の状況を回りにいる何も知らない人間に対して、的確に伝える必要に迫られたはずだ。
人間の言葉が通じないイルカたちが、今何を思っているのか、何を訴えているのか、それはコミュニケーションをとろうとする人間が、感性を研ぎ澄まし、まず感じて、更に想像力を働かすことからしか受け取ることができないものではないだろうか。
オバリー氏がさりげなく語った「イルカを感じる…」という言葉は、実は「イルカとのふれあい」のキーワードなのである。

「イルカを感じる…」という言葉に関連して、オバリー氏の招聘を機に生まれた新しい出合いについてもここに記しておきたい。
オバリー氏来日を目前にした8月末、私はある男の子と対面することになった。
彼の名は「キオ」くん7歳。私には正確な病名はわからないが、ご両親によると「脳性麻痺で、言語会話が不可能な重度肢体不自由児」ということである。
日常の会話は50音が書かれたボードを指さすF・C法(Facilitated Communication)という方法でなされている。
お母様がオバリー氏の講演会参加の申込みをメールで送ってくれたのがきっかけで、私は「キオ」くんと会うことになったのだが、最初のメールにはこうあった。
「イルカに会いたいという息子の願いを叶えてあげようと伊豆のある水族館へ行ったところ、予想に反し、彼は喜びませんでした。そして、思ってもみなかった彼の言葉にショックを受けました」
その時のことを綴った「キオ」くんのエッセイにはこう書かれている。
「…イルカのいるビーチにいくと、イルカの考えがキオに伝わってきたのです。キオは最初、びっくりしてしまいました。イルカの考えがこんなにはっきり聞こえるとは思ってもみませんでした…」
「…キオは、イルカの気持ちを聞きました.イルカたちは、みんなで外に行きたがっていました。ここから見える、外の広い広い海に帰りたい、と言っていました。帰りたいと言って、泣くのです…」
「…キオはイルカの話を聞いて、可哀相になって、泣きそうでした。誰だって家族から引き離されて、こんな狭い水族館に一生閉じ込められると思ったら、嫌に決まっています…」
「…動物達は、自然の中で生きるのが一番です。人間だって同じです。お互い楽しく生きられるように、動物園と水族館がなくなる日をキオは祈っています。おしまい。」(2003.7.25に書かれたエッセイを一部抜粋させていただきました)
この文章に強い興味をもってしまった私は、ご両親に無理を言って「キオ」くんと会わせていただいたのだが、それは強烈な印象を私に与えた。
「キオ」くんという存在をどう捉えたら良いのか、混乱するばかりの私に、彼は自分自身についてこう説明してくれた。「考えや思いをお母さんを通して伝えられるボク」と、「障害をもっていて、身体も言葉も自由にならないボク」その両方が合わさったのが「キオ」くん、すなわち「キオ」くんという人格は、重層的な存在なのだと。

その日、ご両親によると「あまり調子が良くない」ようだった「キオ」くんは、帰り際にこう言った。
「障害をもっているキオは坂野さんの顔がこわいと言っています。失礼言ってごめんなさい」…!?

人間の感性を邪魔するもの、それはたくさんありそうな気がする。
おそらく人間は無意識の内にそれを増やし続けるのかも知れない。“成長”という言葉のもとに…。

先に書いたように、異種間コミュニケーションにおいて、最も大切なものが「感性」であろうと私は思う。
その感性が純粋に突出している「キオ」くんは、もしかしたら、イルカと人間のコミュニケーションを手助けする通訳のような存在になるのではないか、そんなことを今漠然と思っているところだ。

いつの日か、野生のイルカと共に泳いだ「キオ」くんが、どんな感想を語ってくれるのか、楽しみにその日を待ちたいと思う。

(取材先で感じたことなど、たまにではありますが、これからも書いてみたいと思います)

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